2017年4月2日
「コラム」
どの新聞であっても必ず最初に目を通すものがある。
朝日新聞の「天声人語」読売の「編集手帳」毎日の「余禄」東京の「大波小波」などだが、
購読しているのは読売新聞だけです。
なぜコラム欄を気にかけているかと言えば、「さすがプロフェッショナル」とうならせる文章を目にして、
自分の乏しい文才の糧にするためなのです。
それにしてもさすが!としか言いようがありません。
昨夜コラム欄ではないのですが、新聞に目を通していると、「うまいなあ~」と思うエッセイがありまして、
「明日再度熟読しよう」とその記事の部分を手でちぎって今読んでいました。
文章の最後に、著者の名前と所属が書いてあったのを見て、さもありなんと納得。
その方は、読売新聞のコラム「編集手帳」の担当者、竹内政明さんだったのです。
以下、それを転記して、爪の垢にしたいと思います。
テレビドラマには食事の場面がつきものである。大家族が食卓を囲み、丁々発止のやり取りをすることも多い。
この演技が意外に難しいと言う。脚本家の向田邦子さんが対談で語っていた。「寺内貫太郎一家」や
「時間ですよ」で毎回のように、食卓の見せ場をこしらえた人である。
<慣れない人たちは、自分のセリフだな、と思う頃になると、ご飯を食べないの。口の中に入れない>
食べてるふりをする。<台詞は明確に聞こえるんですけど、嘘なんですね>
嘘に走る気持ちは分かる。
台詞が聞き取れなくても困るし、ご飯粒でも口から飛び出したら、視聴者に不快な思いをさせかねない。見事なのは森光子さんで、自分が喋る番でも口いっぱい頬張ったと言う。
それでいて口跡は確かで、見た目も優雅だったと言うから、やはり名優なのだろう。
今はテレビをつけると、業界でいうところの「食レポ」グルメ案内の情報番組が花盛りである。
アナウンサーやタレントの誰もが森さんの名人芸をまねできるはずもなく、口をもぐもぐする時間は悩むところであるらしい。
「ん~ん!」という、食レポ特有のうなり声がある。
美味に出会えた感激を、まずはモグモグしながらのうなり声で伝え、感想はだべ物を飲み下した後で述べる段取りである。
気にしだすと困った物で、「ん~ん!」と言うんだな。きっと言う。もう言う。ほら言った・・・。
変わり者のお前だけだ、と言われればそれまでだが、人を妙に落ち着かない気分に誘ううなり声である。
先日、地方局のディレクター氏と酒席で隣り合わせた折、日頃の疑問をぶつけてみた。
食べものをかみ、飲み下す時間はせいぜい5秒、長くて10秒でしょう。うならずに黙って食べられませんか
ね、と。
「とんでもない」と一蹴された。何か一つ口に入れるたびに、10秒づつ沈黙してごらんなさい。
視聴者はぼんやり待っていてくれませんよ。チャンネルを変えられてしまうと言う。
気ぜわしいご時世にため息をつきながら、思い浮かべた光景がある。
朝、駅のホームで電車を待つわずかな時間を、スマートホンの捜査に始祖シム人々の姿である。
駅に限らない。交差点で歩行者用の信号が青に変わるのを待つ間がそうだし、エレベーターで目的の階に向かう間もありようは同じだろう。
ちょっと前までは、ボンヤリする以外に使い道がなかった。
人は今、その時間を嬉々としてスマホ相手に過ごしている。たとえ10秒のボンヤリも視聴者は望んでいない、というディレクター氏の言葉には、頷くほかないようである。
かつては、そういう半端な時間をこそ、使い道がないまま大切にする人がいた。
「私にとって一番大切な書類は、バーのナプキンに書き込んだメモです」
ノーベル化学賞を受賞したアラン・マクダイアミッド博士の言葉である。何年か前、小社主催のシンポジュウムで来日し、愉快な告白で会場をしばし笑いに包んだ。博士の場合は、研究室を離れてグラス片手のボンヤリするひと時に、ヒラメキが降りてくるらしい。
♪春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋
そう言えば、『みだれ髪』など演歌の名曲を世に送った作詞家の星野哲郎さんも、酒場のメモを大事にした人である。マッチの燃えカスをペン代わりに、胸に浮かんだ詩句を箸の袋やコースターに書き留めたことはよく知られている。
研究室や書斎で髪をかきむしり、苦吟しているときは現れてくれない。
ひらめきという訪問者は、人の虚を突くのが好きないたずら者なのだろう。
科学にも創作にも縁のない身ながら、ぽっかり空いた時間に不意の訪問者を迎えた経験は筆者にもある。
悩み事を解くヒントだったり、忘れていた思い出だったり、その時々の心を潤してもらった。訪問者の足が遠のく 世の中は、さみしい。
ひそかに,コクと深みを人生に添える。ボンヤリする時間は、料理で言えば、隠し味だろう。
さて、その風味を余すところなく伝える表現はないものか。
とりあえず、「ん~ん!」とうなってみる。
爪の垢になりますことを念じて転記しました。
長島正美